6

xvideo



900

本文へスキップ
★★★ 連綿と続く芸術への熱き想い ★★★



お知らせ
第6回工芸ワークショップのご案内


今月のア・ラ・カ・ル・ト
 

生 3月 雛の月になりました。 3月15日は父の命日です。17年前、88歳でした。今年も黄色の薔薇を宝塚の実家に送るつもりです。父は商社勤めでしたが、大学時代には外交官を目指していたそうです。文官試験に落ちたためにN社に入社、その後は会社一筋の人生でした。中国の青島勤務の時、当時は2年毎に内地(中国がまだ日本だった時代)に帰れる結婚休暇がありました。ずっと後に母の遺品を整理した時に父から両親宛に出した長い手紙を見つけました。内容は父なりの将来へのビジョンや見合い相手への希望などを縷々述べたものでした。母は父の生家を整理した時に見つけて、誰にも言わずに抽斗に入れていたのです。母は女学校の時に式典などで来賓席の女性を『もしこの人がお姑さんになったら大変そう』と思っていた人がお見合いに席にいて、驚いたそうです。父の母、祖母です。ともかく二人は青島で新婚生活をスタートさせました。2~3年後には大変な引き揚げ劇が待っていましたが…
後、父曰く「壊滅状態だった」という会社でしたが、私が幼稚園の時にインドへ赴任しました。友達や先生とインドの話をしたこと、タージマハルの絵葉書に「なんて綺麗な建物!」としみじみ見つめたことなどをうっすらと覚えています。初回は日本がまだアメリカの占領下だったので沖縄でパスポートを取得したと聞いています。それから2年に一度、チョコッと帰国して、またインドへという暮らしでした。
4年生の秋に東京勤務になったので、転校しました。大相撲やプロ野球の観戦、羽田空港で飛行機を見たこと。ソフトクリームの味を知ったこと。横浜港でのクィーンエリザベス号見学などの数々の「初めてアルアル」を体験させてくれました。でも1年半足らずでバンコクへ転勤になり、この時から妻子帯同ができたのですが、中学生になる私だけ留守番することとなって、小6でまた京都に戻りました。その後バンコクからマニラへ直接転勤したため一度も会うことのないまま次に帰国した時には15歳になっていました。そしてそれからも出張や大阪・東京の兼務などと忙しく、そのうち私も家を離れました。
ども時代の父との密な時間は本当に短いものでしたが、あの1年半の思い出が彩りのある松花堂弁当のように記憶の奥底に残っています。両親の遺影を見る時には、どうしても圧倒的に母に話しかける方が多く、時折「ごめんね、パパ」と父に頭を下げる私です。 (K.M)

contents

中信美術会

委員長 
清沢龍美
事務局 
 〒399-6462
 長野県塩尻市洗馬641
 塩原峻郎 
 TEL 090-6044-5290